――酸素ボンベ持参の講演を始めたきっかけは?
一昨年夏にカリニ肺炎が悪化して入院してからです。約束していた講演をキャンセルするわけにはいかず、医師の了解をもらって携帯用ボンベを持参し演壇に立ちました。以来、ペットのように連れ回っています。
膠原(こうげん)病との付き合いは30年来です。右の肺は自然気胸ですでに無く、左も半分以上が肺気腫(はいきしゅ)。3年前には大腸がんの手術もした。「病気のデパートのオーナー」を自称しています。
――病と向き合うこつは?
「病気はするけど、病人にはならない」ことです。
おしゃれをする。ハードルが少し高くても新しいことに挑戦して、「自分もまんざらではない」と自信をつける。医師と信頼関係を結ぶ。自分が必要とされる場所に進んで出て行き、エネルギーをもらう。この4カ条を実行しています。
――女性運動や平和運動に長くかかわってこられました。
14歳で日本の敗戦を迎えた私の戦後は、進駐軍の米兵による集団性暴力から始まりました。当時は「被害に遭うのは女の側の落ち度であり、傷物の女は結婚できない」とたたきこまれていて、私も自殺未遂を繰り返しました。しかしその後、性暴力は、男性の人権も蹂躙(じゅうりん)する文化構造や国家の非情さの問題だ、と思うようになりました。
戦時中は私も軍国少女で、出陣学徒を旗を振って送り出しました。同じ過ちを繰り返さないため、平和憲法を次の世代に引き継いでいきたい。そういう思いから性暴力に遭った体験についてカミングアウトしたのが、41年前です。私の本を読んで「自分が悪くない」ことに気づいた女性も大勢いました。
――ご自身の傷は癒えたのでしょうか。
いいえ。だから、抑圧されているストレスを誰かが弱い女性にぶつける――そんな差別の構造に出合うと、体が怒りで動いてしまうのです。「幸福になりたいという意志を奪われた」と思うようになって以来、そういう生き方が続いています。「女は視野が狭いね」と言った夫も、亡くなるまで47年間、一緒に暮らしながら遠い存在でした。
――年を重ねるということは、どういうことですか。
変な社会的制約から解き放たれて得をしていく。どんどん楽しくなり、だんだん自分らしくなっていく感じです。69歳で女声合唱団に入り、73歳でミュージックベルの演奏も始めました。昨年は竹下景子さんら女性7人で、朗読と語りの会「ななにんかい」を旗揚げしました。
人生100年の時代には、60歳を過ぎれば、思いのままに全力を注げる時間がたっぷりあります。次の世代が生きやすくなるよう、種をまき、道を造ることが、人間の最高の生きがいです。若い人たちの伴走者として、次代のために力を尽くすことに幸せを感じています。
――高齢者で元気なのは女性が目立ちます。
日本の男の人は“固有名詞のある個人”として生きることがほとんどありません。都市銀行の支店長だった私の父も、55歳の定年で退職した8カ月後に首の動脈を包丁で切って自殺しました。会社での役割だけで生きてきたための悲劇でした。個人がいかに非力であるかを知ったうえで個人として生きられる――そういう人間でないと、家庭や地域で人間関係を築ける「人持ち」にはなれません。
――同じ高齢の方々に注文したいことはありますか。
おとなしい年寄りになりすぎていますね。後期高齢者医療制度は「金のない年寄りは早く死ね」と言わんばかりだし、政府の雇用政策のツケでワーキングプアの若者も激増している。若い人たちと手を握り合って、怒りをぶつけないといけないのに、出来ていません。
喜怒哀楽の中で人間の尊厳にかかわる感情は怒りです。女性や高齢者、体の不自由な人々が怒ること、それがまるで不徳であるかのように思われていたのは、為政者が弱者の怒りを見るのがいやだったからです。
若い後輩たちに対して優しく、そのうえでキレるべきときには見事にキレる、そういう高齢者になりたいですね。(谷啓之)